旅人目線

楽しい時間ほど早くすぎてゆく

いくら一軒宿といっても、やはり夜の散歩には出かけたくなります。足元に注意しながら、少しだけ歩いてみることにしました。

湯治部の建物からは、客室の明かりがひとつ、ふたつ。こんな情景さえ風情があります。

総けやき造りの藤三旅館。夜になると一層趣があります。掲げられたちょうちんも、いい味を出しています。こんな風景についついほっこりしてしまうのも、日本人に生まれてきたからでしょうか。

かなり冷え込んできました。転ばないように、ゆっくり坂をのぼります。よくみると、道路が凍結しないよう路面からシャワーのように出てくる温泉の蒸気が、あたりを包んでいました。

付近にはまだまだガッツリと雪が残っていました。

冷えた体をあたためるべく、自室の露天風呂へ。湯船もさることながら、常に流れ落ちるお湯を受け止めているせいか、床の上を裸足で歩いてもあったかくて、まるで床暖房のように気持ちいいです。

最初は少し熱いと感じたお湯も、肩まで浸かるとジャスト温度です。至福の時。全身の力が抜けていきます。誰に気兼ねすることもなくわがままの限りを尽くせるのも、プライベートな露天風呂ならではです。

体の芯まで温もったタイミングが、一日の終わり。最初は客室にしては地味な色だなと思っていたシックな黒も、眠りを誘うにはちょうどよかったことに気づきました。朝までゆっくり眠れそうです。

驚きの「朝食9時」

朝の食事はトマトジュースから。
アイコトマトという品種を使っているのだそうで、甘さの基準となる糖度はなんとメロンと同じだそう。充実した朝こそ、健康への大きな足がかり。こんなところにも、総料理長の優しさが込められているような気がしました。

朝食は8時から9時くらいを希望する宿泊客が多いと聞いて、またびっくり。「建物はハードですがスタッフはソフトです」をモットーとしている屈託のない笑顔が印象的なスタッフによると、それも時間をゆっくりすごしたいという宿泊客のニーズのひとつなのだそうです。

チェックインの時間が早かったり、チェックアウトの時間が遅いという旅館やホテルは少なくありませんが、朝食時間までゆっくりすごしてもらおうというのは、もはやスタッフの余裕というしかありません。どこまでも上質なホスピタリティーにこだわる姿勢は、こんなところにまで行き届いていました。

立ったまま入る日本一深い岩風呂

さて、今回の旅の締めくくり。600年前もの昔、白い猿が傷を癒していたという伝説のある「白猿の湯」を目撃しておかないと、帰るわけにはいきません。

ドアをがらりと開けると、これまた別の意味での非日常空間に遭遇。こんな温泉見たことがありません。何度も何度も見下げたり見上げたり、わくわくどきどきの連続です。

なんと天然の岩をくり抜いてできたのが、ここの湯船だそう。湯船の深さは平均125㎝もあります。その底から、源泉100%の湯がこんこんと湧きだしています。全国でも珍しい「立ち湯」。そう、入浴は立ったまま。座れないし寝そべることもままなりません。しかしながら立った姿勢で全身にまんべんなく湯圧がかかることから、循環器系を整えるだけでなく、血行促進にも効果があるといわれています。

どんなアングルからみても、圧巻というほかありません。

2回目にしてやっと入れたという男性客が、興奮して何度も「えがった~!」を連発していたのが印象的でした。

とっておきの贅沢をかけがえのない人と

建物に沿って流れるのは豊沢川。今は灰色にしかみえない景色も、春から夏にかけて目にまぶしい新緑が、そして深まる秋の訪れとともに真っ赤に染まるであろうことは容易に想像できます。
深き山々、川のせせらぎ、こんこんとわき出る豊かな湯。およそ600年の歴史を誇る鉛温泉。モダンで快適なラグジュアリー空間に身を寄せて時間をゆっくり感じながら、ひなびた一軒宿の昭和な風情も堪能できました。

ゆったりと流れる贅沢すぎる時間があるからこそ、誰かを誘いたくなるのです。
ホームページの「その、かけがえのない刻と人へ」というキャッチコピーも、とても好感が持てます。単に大好きな相手ではなく、かといって大切な相棒でもなく、「かけがえのない人」という表現に、強く惹かれるものがありました。そして、「十三月」という名称に込められた奥の深さ。そんな場所ですごすひととき。すべての景色と時間を一人占めできる、とっておきの贅沢。ここには温泉街や観光地は必要ないのです。まさにここは「人に教えたくない場所」でした。

旅の終わりにひとこと。あなたにとって、「かけがえのない人」とは誰ですか。

■取材・撮影 池田厚司

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